迷 宮 旅 行 記

長距離のバス待つ君の人生はさておき旅はまだ先がある

サハリン〈第3日〉

ユジノサハリンスク→スタロドゥプスコエ→ユジノサハリンスク→列車で北へ】


起きたら天気がよい。ラッキー。


朝食は昨日とは微妙に変えてあった。玉子焼きが欲しくてメモ帳に卵2つとフライパンとオムレツを描いて見せた。が、目玉焼き2個がやってきた。ご飯にかけて食べた。


朝シャワー。バスローブがあって重宝する。


荷物をいったん預けて駅前へ。きょう日中は、近郊のスタロドゥプスコエというところまで行って来る。宮沢賢治にゆかりのある町だ。バスでまずドリンスクというところまで行き、さらにバスを乗り継ぐ。

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駅前のバスターミナルに行くと、ドリンスク行きがちょうど出発するところ。すぐ乗り込む。115ルーブル


隣に座っている人が「日本人ですか」と話しかけてきた。曹さんという人(氏名を書いてもらった)。1940年朝鮮半島北部に生まれ、1943年に両親が徴用でサハリンに来たのに連れられてこの地を踏んだ。終戦で日本人は本土に帰り、代わりにソ連がやってきた。曹さんはサハリンにとどまった。当時 両親には「土方の仕事しかなかった」と言う。だが畑などは持てたらしい。

曹さんはそのままサハリンでずっと暮らしてきた。子ども3人をもうけ、マンションも買った。仕事はクレーン車の運転手。息子は貨物車のドライバー。食事はずっと朝鮮のものを食べていたという。子供たちも同じ。

「ロシア人どうですか」と聞くと、「何十年も一緒に住んでいますから…」と笑う。

現在は韓国とロシアの二重国籍。子供たちは韓国に行ったことがなく韓国語も全く話さない。ましてや日本語は無縁だろう。曹さん自身も日本語は相当久しぶりだったのではないか。それなのに、3歳から5歳くらいの時だけの日本人との接触でこんなに日本語が話せるというのは、不思議だ。

しかし2006年になって韓国仁川に帰国した。

「どうしてですか」「そりゃ私は朝鮮人ですから」

年金をもらうようになった年だという。ロシアからではなく日本か韓国かどちらからからのようだ。どんな種類の年金かも不確かだが、毎月900ドルとか。

「けっこういい額ですね」「でも、仁川に建てた家のローンが毎月400ドルあるから、きついですよ」 現在その家に奥さんと2人で暮らしている。

なお、「サハリンと韓国で、どちらが物価高いですか」と聞くと、「それはサハリンです」と即座に答えた。

今回 サハリンに2つ持っていたマンションの1つを売り、子供のために郊外に家を建てているらしい。そのため韓国からサハリンに来て3か月滞在している。このバスに乗ったのは、ドリンスクまでの途中にあるその家に行くためだ。サハリンで家は100万円くらいで建つという。

道路は舗装されている。バスも古いが乗り心地はまあまあ。夏が短く冬が長い土地柄のせいか、冷房はない。外からの風がないとちょっと蒸し暑い。この日はサハリンの夏でも特に暑い日だったのではないか。

バスの車窓からは工場や畑が最初のうち見えていたが、そのうちに利用されていない雑木林や草原ばかりになった。「昔はここでキャベツ、ジャガイモなどを作ったものです」。そんな話を最後に曹さんは途中のバス停で降りていった。

今回の旅行には、過去の日本をたどるという動機もないわけではなかった。だから曹さんと会話できたことは、とても幸運だった。サハリンとはいかなる土地なのか、いくらか知ってはいるが、ひとつ具体的なストーリーとして思い描くことができた。(言葉が通じるというのは、やはりなんと素晴らしいことか)

曹さんは照れくさそうに話しかけてきたから、本当はもの静かな人なのだろう。でも昔のことをニコニコとなんでも教えてくれた。かつて支配者だった日本のことを、ソ連がやって来たら「みんな帰りました」という日本人のことを、どのように眺めてきたのか、よくはわからない。でもきっと、懐かしいという思いが一番大きくて声をかけてくれたんじゃないか。


1時間ほどでドリンスクに到着。小さな町だが、鉄道駅がありサハリンから列車もたまに来るようだ。その駅前がバス乗り場で、発車前になると人々が集まってくる。駅舎の入口には鍵がかかっていたが、駅舎の両脇からホームに出られる。それどころかレールを横切って人々は行き来している。のどかな町の風景をしばし眺めた。



ドリンスクからスタロドゥプスコエへのバスは12時発。26ルーブルf:id:tokyocat:20130415021800j:plain
乗り込むと地元の人でほぼ満席。高齢の人が多い。若い世代は車を使うのだろうし平日だからそもそも仕事しているのだろう。旅行者はたいてい老人や子どもにばかり会う。あるいは物売り、警官、ホテルのフロント。ふつうのオフィスの勤め人とはあまり関わることがない。海外にいるとどこものんびりして見えるのはそのせいもあろう。


ほんの20分ほどで「あ、海が見えてきた」と思ったら、もうスタロドゥプスコエだった。


天気がとても良いし、さっそく海辺まで出てみた。

なんの変哲もない海岸だが、これがオホーツク海か。

砂浜が中心で岩場も少しある。海水浴に来た家族連れがぽつりぽつり。浜茶屋などは まったくない。


座礁したとおぼしき船が2つ、海中に放置されていた。

完全に錆びきっていて崩壊寸前。




足を海水に浸して一休み。それにしても日差しがきつい。やっぱり帽子を持ってくるんだった。まさかこんなカンカン照りの日があるとは予想しなかった。


地球の歩き方 サハリン 2011-2012』によれば、明治時代にサハリンを訪ねた宮沢賢治が当時の鉄道でこの地に来ている。そのころスタロドゥプスコエは栄浜という名だった。鉄道はだいぶ前に廃止されたが駅のホームや線路の跡は残っているらしく、歩き方のハイライト記事にもなっている。

せっかくなので、そんな風景を見てみたい。そう思い、とりあえず町をあちらへこちらへと歩き回った。が、それらしい場所はなかなか見つからない。

地元の人にも『歩き方』の線路だけが残っているの写真を見せ、同じく『歩き方』の会話集を参考に「ここへ歩いて行けますか」と片言で何度も聞いた。バス停そばのマガジン(コンビニのような店をロシアではこう呼ぶ)にいた男性。バス停近くで路を渡ろうとしていた女性。町の中心にあった軍の建物の前にいた男性。別のマガジンの店番の女性。その店にたまたま着ていた夫婦。


みんなとても親切に話をしてくれる。しかしなんだか要領を得ない。どうやら「線路はもうない」ということを必死で説明してくれているようだ。というのも、『歩き方』にはすでに撤去されたレールがまだ残っている時の写真が掲載されているので、それを指摘していたのだろう。私がカメラを見せつつ「写真を撮りたい」ということを伝えたりするので、よけいややこしくなったのかもしれない。申し訳ないことにこちらは単語の1つもわからないから、そもそもどうにもならないのだが。

地図を描いてくれと必死でメモ帳をペンを渡すが、曲がった路を1本書くくらいのことで、どうしてもすべて口で説明しようとする。人間は絵では生きていない、言葉で生きているのだ。


それでも最後に尋ねた夫婦は、帰り道にその場所があるらしく途中まで直接連れて行ってくれた。


おかげでとうとうたどりついた。そこはレールもなにもかも完全に撤去されハマナスと雑草だけが生い茂る場所だった。しかしよく見ると枕木の残骸だけが地面に埋もれながら辛うじて残っている。今は人が歩くだけの小路。周囲には家も人影もほとんどない。



(この日の記録はこちらにも→http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20120923/p1


ドリンスクに戻るバスは16時半に来るというので、もう一度海岸へ。せっかくなのでちょっと泳いだ。オホーツクで泳いだ。



帰りも同じバスで同じ運転手。バス停以外では人が手を上げても止まらない。律儀なのか、冷たいのか。


ドリンスクではバス停脇のオープンカフェに入る。店先に並べてあったホットドッグを食べたがまずかった。昼スタロドゥプスコエで食べたホットドッグもまずかった。パンがスカスカなのだ。それでいて高いからびっくりする。ペットボトル入りの甘いお茶と一緒に買って500〜600円くらいだった。日本のパンの優秀さを思う。マックやサブウェイの優秀さが身に沁みる。うまいコーヒーや紅茶にも出会わない。インスタントコーヒーかパックのお茶。


ユジノサハリンスク駅前に帰ったのは18時半すぎ。ベルカホテルに預けてあった荷物をピックアップし、近くのスーパーで食料を調達しに急ぐ。このあとの夜行寝台に持ち込むためだ。ピロシキ、ハンペン的なもの、巨大なシャシリク(肉の串焼き)、オリーブ、ピーマン、トマト、キュウリのサラダ、揚げ物、カップ麺、ポテトチップス、大きめの水。全部で500ルーブルくらい。明らかに買いすぎだが、夜は長いと思った。


駅のキオスク(食品、雑貨、タバコなどを売っている小さな小売店)で、人々がビールでピロシキを食べているのを見たら、うまそうで1つ買って食べた。ちゃんとあたためてくれる。キオスクは思いの外、重宝する場所なのかもしれない。人々も長年なじんで町とはよく共存しているのだから。


ユジノサハリンスク駅に着くと、列車は待機し人々がどんどん乗り込んでいた。2等車は4人のコンパートメント。ロシア男性3人が同室。私は上のベッドだったこともあり遠慮してしまい、持ち込んだ食料を食べようにも下のテーブルにはつきにくく、列車の通路の席に座って食べた。そしてらテーブルへどうぞと呼んでくれたが、他の人は何も食べないので、一人でむしゃむしゃと食べて終わった。





(列車の写真は翌朝撮影した)

コンパートメントはシベリア鉄道で記憶していたより狭く不便だと感じた。そしてなによりエアコンがないため、とにかく暑い! しかも窓は開かず扇風機すらない。そもそも寒冷地仕様なのだろう、隙間風などがまったく入らないようになっている。ずっしりした毛布も備えてある(もちろん誰も使っていない)。短い夏の間は暑さに耐えるしかないようだ。同室の男3人はみな上半身裸、パンチ一丁になっている。しかも上のベッドでは窓がないから景色を楽しめるわけでもない。こんな状態で身動きもとれない感じで、もう牢獄にでも入れられた気分だ。

黙ってパワーズの小説を読んでいたが、しだいに顔はほてり体には汗がにじんでくる。私もけっきょくパンツ一丁になった。おみやげになるかと思って日本から扇子を持ってきたのだが、自分で使わざるを得ない。それでも暑い。一時は、コンパートメントから通路に出て、備えてある折りたたみ椅子に座ってやりすごした。この通路がまた狭い。ロシア人らしい巨漢の男性客と女性乗務員がわきを通るときは私に体をくっつけながらやっと通る。そもそもロシア人にこの通路やベッドは小さすぎる。

列車は黙って走り、途中の駅で何度か黙って停車した。深夜の12時か1時ごろには、上りの同じ列車とすれちがった。ベッドでどうにか眠ったたのは3時ごろだった。

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【take it easy】